エピソード編の中で、一番本編との違いを感じたのは、エピソード7のオスカル編です。私はこの作品を読んでいて辛い気持ちになりました。
この物語は、ジャルジェ家の跡取りとして、軍人として生きようとしているオスカルの心の底には、「望んでいることをすべて諦めた人間だ」という想いがあることが描かれています。
そのことは、オスカルを冷ややかに見ている、もう一人の女性としてのオスカルが現れることから、次第に分かってきます。
まだ、オスカルが近衛士官になる前、剣の稽古に励むオスカルの前に、もう一人の自分が現れたことが最初でした。
マリー・アントワネットが、初めてベルサイユ宮殿に姿を見せた時、そして、パリ、オペラ座の仮装舞踏会で、フェルゼンと初めて会った時にも、その女性が現れています。
その女性は結婚式を挙げ、子供を膝に抱っこした姿で、オスカルの前を馬車で通り過ぎたこともあります。
そして、オスカルがフェルゼンとの恋に、終止符を打とうとして、ドレスを着て向かった舞踏会では、先にフェルゼンとその女性は踊っているのです。
その女性は、オスカルに「おまえは気づいていたはずだ。わたしはおまえが諦めたもののすべてだ」と告げて、消えていきます。
そして、父ジャルジェ将軍に、生涯を武官として生きるという、自分の決意を語る、あの本編でも描かれた場面へと続いていきます。
ここで、オスカルがジャルジェ将軍に語る「決して何かを諦めた結果ではない、自ら選びとった道でございます」という言葉が、池田理代子先生が、一番読者に伝えたかった言葉だということが分かりました。
でも、決して、本編のオスカルは、こんなふうに、自分のしたいことを諦めて生きてきた人ではないと思っています。
普通の女性として育っていたらという、そういう心の動きは、あったことは確かです。
本編でも、ジェローデルとの結婚話があった時に、では、わたしの人生はいったい何だったのだと思い返しています。
でも、恋をしたり、結婚したり、子供を持ったり、そういうことを望んでいたのに、諦めてきた人ではないはずです。
それよりも、もっと、ポジティブに自分の人生をとらえてきた人だったと思うのです。フェルゼンにも恋をし、実らない恋だったけれど、それは恋することを最初から諦めていたわけではなく、結果として、恋が実らなかっただけです。
アンドレと心から愛し合い、自分から女性としての幸せを求めた姿や、アンドレとの結婚も望んでいました。でも、軍人として生きることも、オスカルにとっては、大事なことでした。それらの想いは両立していたと思うのです。
このエピソード編のオスカルの前に現れる女性は、なぜこんなに冷ややかなのでしょう。軍人として、懸命に生きているオスカルを少し見下しているようにも見えます。
そして、軍人として革命に身を投じるオスカルの死の描き方も、本編とはまったく印象の違う描き方になっています。
ロザリーとアランに看取られながら、自分の想いを語り、人生の幕を下ろすオスカルの姿は描かれていません。銃で撃たれて、一人で冷たい石畳の上にうつぶせに倒れるオスカルの姿が、このエピソード編で描かれたオスカルの死です。
この作品が読者に伝えたい想いとは何だろうかと、まだ、私自身のなかでも、考えが纏まってはいません。
ただ一つ言えることは、本編でオスカルが語った言葉が、やはりオスカルの想いを一番表しているということです。
「自己の真実のみに従い、一瞬たりとも悔いなく、あたえられた生を生きた。人間として、それ以上のよろこびがあるだろうか」という言葉です。