はるのゆめ

ベルサイユのばらが大好きです

12年前の3.11

東日本大震災が起きた時、私の住んでいる所は震度5弱でした。震度4以上の揺れは、それまでに経験したことがなく、大きな横揺れは、震源が遠いからでしょうが、それでも、歩けないような大きな横揺れで怖かったです。経験のない大きな揺れでした。当時は県の小児病院の事務局で働いていました。

こんな大きな地震だと、電車は動かなくなるからと、帰宅の許可が出ました。

たまたま、同じ方面に車で帰宅する人がいるので、車に乗せてもらい、帰宅しました。でも、停電により、信号機の表示が消えていました。運転している人は、すごく怖かったと思います。車に乗っていても、分かるような揺れが頻繁に襲ってきました。

東北地方に比べたら、大きな被害はなかったのですが、電気のついていない街は、いつもとは違う景色、この世の終わりのような、ゴーストタウンのように見えました。

帰宅すると、地元中学校に通っていた、娘たちは、家に帰ってきていました。そして、当時は、うさぎのぴょん太を飼っていましたが、みんな無事でした。

家の中も、殆ど何か落ちたり、割れたりはしていなかったのですが、次女の部屋だけ、本棚から本が落ちて、床に散らばっていました。

でも、後で、分かったことですが、ピアノの位置がずれていました。あんなに重いピアノが動いてしまうのだから、やはり大きな揺れだったと思います。

そして、その日はガスがとまっていました。本当は、大きな地震がくると、ロックがかかるようになっていたようなのですが、だから、解除すれば使えたようなのですが、分からなかったです。

そして、停電はしていました。そして、携帯電話も使えなくなっていたと思います。

夫とは連絡が取れず、電気もつかず、ガスも使えないのですが、娘たちと、ランタンとか、懐中電灯をつけて、暗い家の中で、カセットコンロで何か作って食べました。

当時は石油ストーブはなかったので、(今は一つあります)エアコンも、石油ファンヒーターも使えず、お風呂にも入れず、多分寒かったとは思います。

余震が頻繁に起こり、電気がつかないため、暗い家の中で怖かったです。深夜になり、携帯電話が使えるようになり、夫は帰宅困難のため、職場に泊まっているということが分かりました。「電気もガスもつかない」とメールしたら、「頑張れ!」と返事が来ました。

そして、携帯電話が使えるようになり、同じ県内に住んでいる、夫の両親、私の実家も皆無事だったことが分かり、安堵しました。

そして、随分遅い時間になってから、朝方近くだったかもしれません。急に電気がぱっとつきました。電気がついた時の、安堵した気持ちを今でも思い出します。

娘たちが中学生だったので、私だけでも帰宅出来たのは、良かったと思います。翌日は、土曜日で休みだったように記憶しています。夫は翌日には、何とか帰宅できたと思います。

その後も、暫くは余震が頻繁に起こるため、常に体が揺れているような気がしていました。

計画停電地域でしたが、停電になりませんでした。あとで聞いたところによると、液状化現象が起きた地区が近くにあるため、停電にならなかったようです。

あれから、12年経ちました。もう12年なのか、まだ12年なのか、感じ方は人それぞれかもしれません。経験したこともないような、大きな地震でした。そのことを改めて思い出しました。 

今は、娘たちも家を出て、違う県で生活をしているため、大きな災害が起きた時に、当時ほどすぐに安否確認ができないかもしれないし、そういう意味では心配があります。

大きな地震や台風などの自然災害は、怖いし、そういう大きな自然の力の前には、人間は無力だと感じてしまいます。でも、出来ることをしていくしかないし、いつ起こるか分からないけれど、備えをしていくことは、やはり大切なことだと思います。

 

2016年8月に、お月さまに帰ってしまったぴょん太くんの写真です。
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