はるのゆめ

ベルサイユのばらが大好きです

ユリウスについて

1部では辛いことがあっても、主体的に生きていたユリウスですが、3部のロシア編では、どちらかというと、運命に翻弄される人物として描かれています。主体的に生きる姿があまり描かれていません。

女性の生き方を描いているという視点からも、池田理代子先生の作品には、多くの女性が登場し、それぞれの置かれた立場の中で、主体的に生きている印象が強いのですが、ユリウスだけなぜこのような描かれ方なのでしょうか。

ロシア編では、アレクセイが主役、そして、池田理代子先生はロシア革命を丁寧に描きたかったからではないかと思います。

ユリウスが、ロシアに行く時の気持ちをイザークが代弁しています。すべてを捨てて、愛に殉ずるために、ユリウスは、ロシアに行くのです。

愛に生きようとするユリウスを描くよりも、ロシア革命を丁寧に、そしてそこで生きる人々の姿を、アレクセイを主軸に描いていきたかったのではないかと思います。

ユリウスが革命家になって、アレクセイと共に生きるなどの描き方をするということも可能だったかもしれませんが、池田理代子先生は、そういうストーリーにはしませんでした。

ユリウスが革命に身を投じる理由づけがとても弱いような気がします。ロシア人でもなく、愛する人の祖国に行きたい、愛する人に会いたいという気持ちからロシアに行ったユリウスが、この混乱した状態のロシアでアレクセイと会うことすら難しいように思われます。

だから、前半は、ユスーポフ邸にずっと匿われて生活をしています。ロシア革命下で、ユスーポフ候の庇護のもと生きていきますが、傍観者の立場にならざるをえません。いつかアレクセイに会える日をここで待つしかないということになるのです。

そして、やっと再会したアレクセイにも、故郷に帰れ、おれのことはわすれろと拒否されてしまいます。

そのことがきっかけとなり、記憶を失ってしまいます。

ドイツでのアレクセイとの恋も、当初ロシアに来た目的も、そして、過去の自分が犯した殺人についても、すべての記憶を失ったまま、ユスーポフ邸で数年が経過してしまいます。

そして、のちに、再びアレクセイと再会し、二人は夫婦として一緒に暮らし始めますが、殆どの記憶は失ったままです。

その後、ユリウスがドイツ人だからという理由で、アレクセイの実家の侯爵家が襲撃され、アレクセイのおばあさまや、執事のオークネフが亡くなります。

また、ユリウスの存在が、アレクセイをおびき寄せる罠として利用されてしまいます。

アレクセイは、それが罠だと知ってもなお、ユリウスを訪ねて行きます。

もうすぐ生まれてくる子どもに、そして命がけで、このロシアに来たユリウスに何も報いてあげていないというのが理由です。

訪ねてきたアレクセイは、ユリウスが「逃げてアレクセイ」と叫んでしまったために、銃で撃たれて、ネヴァ河に落ちて流されてしまいます。

そして、アレクセイとの子どもが産まれますが、死産となります。

ここまで、過酷な運命が与えられるのは何故なのか、読んでいて辛い気持ちになります。

その後、故郷に戻り、自分の本当の記憶を取り戻そうとしていくユリウスが描かれていきます。ぼくは人間でありたいんだとダーヴィトに語るユリウスに読者も少しだけ慰めをもらいます。

しかし、ユリウスがすべてを思い出したときに、1部で繰り広げられた復讐劇が、まだ、終わってはいなかったことがわかります。アネロッテを愛していた使用人のヤーコプに殺されてしまうという終わりを迎えます。本当に辛い終わり方です。