はるのゆめ

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ランベスク公とは

パリに出動して、オスカル達はテュイルリー宮広場で、暴動が発生したとの報に接します。オスカルはここで、隊士たちに対して、自分の決意を語ります。

おそらく、ここでオスカルが語っている言葉とシーンは、紛れもなく、池田理代子先生が描きたかったシーンの片手に入るのではないかという、名シーンですが、それはまた後日触れたいと思います。

今回は、ここでの戦いの相手となったドイツ人騎兵を率いるランベスク公について、どんな経歴なのか、ちょっと調べてみました。

ランベスク公は、フランスの貴族、そして軍人です。代々世襲する王室主馬頭の宮中職を継承したとあります。王室主馬頭とは、漢字の通り、王室の馬や猟犬、厩舎、馬車などを管轄する仕事のようです。

そして、ギーズ家という家柄の出身ですが、このギーズ家の本家がロレーヌ家だと書かれています。ロレーヌ家はマリー・アントワネットの出身だったため、ランベスク公とその家族を、宮中の慣習に反してまで、特別扱いをしたと書かれてありました。

確かに、マリー・アントワネットの父、フランソワはロレーヌ公国統治権を手放し、オーストリアマリア・テレジア皇女と結婚をすることが、「ベルサイユのばら」エピソード編には描かれていました。

マリー・アントワネットの本名は、「マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アブスブール・ロレーヌ・ドートリシュ」といいますが、ロレーヌという言葉が入っています。

ランベスク公に話しを戻しますが、軍人として順調に出世し、1788年にドイツ人近衛連隊の連隊長に任命され、准将になったと書かれてありました。

そして、ランベスク公率いるドイツ人近衛連隊は、1789年7月12日(原作では13日)民衆側の投石を受け、民衆を攻撃し、暴動に参加していなかった一般市民まで、殺傷する事態に発展したと書かれています。

ベルサイユのばら」の原作もこの史実をとりあげ、オスカル率いるフランス衛兵隊が戦闘に加わる様子が描かれています。

この事件では無罪となったランベスク公ですが、この事件そのものは、国王の軍隊が民衆に対して刃を向けた事件であり、民衆の王室に対する信頼を損なうこととなり、ランベスク公自身も民衆に憎悪されるようになったとあります。

その後、革命の進展とともに、1791年フランス国外に脱出、オーストリアで軍人としての人生を歩んでいくことになります。そして、1815年にフランスの王政復古が実現すると、剥奪されていた爵位を回復し、ルイ18世によって、フランス軍の元帥に列せられたとあります。

しかし、1789年の自身の率いる連隊が起こした民衆殺害事件のための、民衆の憎悪により、フランスへは帰国できなかったとあります。

                           出典:ウィキペディア