はるのゆめ

ベルサイユのばらが大好きです

愛の告白 別の見方

以前このブログでも紹介した湯山玲子さんが書かれている「ベルばら手帖」から再度考えます。この本は、ベルばらをオトナ読みするという趣旨の本です。

この本の中では、漫画「大奥」を描いたよしながふみさんが、アンドレがオスカルに愛の告白をしたシーンは、アンドレがオスカルを衝動的に抱こうとして、失敗したという表現をしています。

そして、「ふつうはこんなことをされたら、二人の関係は終わりになるが、アンドレが謝ると、オスカルはあっさり許してあげている、オスカルは心が広い」と書いています。

この意見は、私が捉えているニュアンスとは、少し違うかなと思うところもありますが、敢えてそうだったと仮定して、再度考えてみました。

アンドレはオスカルを抱こうとして、失敗したのでしょうか。失敗というか、途中でやめたのでしょうか。

アンドレが一番恐れていることは、オスカルがほかの男性を好きになったり、結婚してしまうことです。

最初に殺されたってかまわないおまえを愛しているとアンドレは言っています。

そして、おまえをほかの男の手にわたすくらいなら、このまま、この場で、だんなさまにでも射殺されたほうがましと言っています。

愛する気持ちを告白するだけなら、殺されてもかまわないという表現は、普通しないと思います。そして、このまま、この場で、射殺されたほうがましと言っています。ここが引っかかります。

アンドレはオスカルをほかの男の手にわたすくらいなら、今この場でオスカルを自分のものにして、そして、だんな様に射殺されたほうがましと言っているのかもしれない、そうも読めます。

アンドレは、オスカルのことになると、常軌を逸してしまうことがあるのは、心中未遂事件からも分かります。

でも、仮にそのような気持ちだったとしても、アンドレは、オスカルを無理矢理自分のものには出来なかったと思います。そこが愛ゆえのアンドレの弱さ、弱さと言っては語弊がありますが、腕力では勝っていますが、オスカルには勝てない点であり、優しさだと思います。

ブラウスを破かれ、強い衝撃を受け、驚き、そして涙を浮かべ、そのあと、目をふせて静かに涙を流すオスカル、多分ここの場面だと思いますが、よしながふみさんは、オスカルが一瞬抵抗をあきらめたシーンと、捉えています。確かにそうかもしれません。

ここでの描き方、オスカルの一言がとても効いています。さすが池田理代子先生だなと思います。

アンドレを決して、責めずにそれでいながら、オスカルの一言は、アンドレの心に刃のように、突き刺さっています。

アンドレは、オスカルをほかの男に奪われる恐れから、力づくでオスカルを自分のものにしようとしたかもしれません。

でも、そのことよりも、もっと怖いのは、オスカルを傷つけ、このように、泣かせてしまうことだと思います。

自分の身勝手さを、すぐに悟ったアンドレは、それ以上のことは何も出来なくなります。そして、すまなかったと謝罪します。もう二度とこんなことはしない、神にかけて誓うと言っています。

この神にかけて誓うという言葉は重く、その後のアンドレの行動を縛る言葉になった気がします。

そして、謝罪したあとに、だけど、愛していると涙を流して、オスカルに言うアンドレが、愛おしくなります。

「オスカルは、心が広い」という、よしながふみさんの意見は正しいかもしれないですが、でも、単なる心の広さだけでゆるしたわけではないと思います。これはアンドレだから、オスカルはゆるしたのだと思います。そして、アンドレの自分に対する気持ちが本気なのがよく分かり、それを受け止めたから、ゆるしたのだと思います。

よしながふみさんの「大奥」は、今NHKでドラマ化されています。私は漫画を読んだこともなく、ドラマも観たことはありませんが、気にはなっていました。

よしながふみさんはベルばらの大ファンだそうで、特にこの愛の告白シーンは、一番好きなシーンだそうです。

「大奥」というマンガは、オスカルの「男装」が社会全体のシステムに姿を変えたような趣がある、というのは、「ベルばら手帖」を書いた湯山玲子さんの意見ですが、そのように書いてあります。