はるのゆめ

ベルサイユのばらが大好きです

あの微笑みはもう還らない

今日のテレ玉で、アニメ「ベルばら」の再放送を観ました。

アンドレが亡くなり、翌7月14日、バスティーユ牢獄襲撃の場面、そして、オスカルが銃に撃たれるところまでが、描かれました。

アンドレが死にゆく場面は、やはり辛いシーンです。でも、医師の言葉には、ツッコミたくなりました。

「弾が心臓を真っ直ぐに貫いている、生きているのが不思議なくらいです」と言っていましたが、普通そういう状況なら、即死だと思われます。

それだけ、死にたくない、まだ、自分たちはこれからなのだという、アンドレの強い気持ちを表現しようとしたのかもしれませんが、でも、違和感がありました。

涙を流しながら、アンドレに結婚式を挙げて欲しいと言うオスカル、私を妻にすると誓って欲しいと言うオスカル、そして、そうしようと応えるアンドレ

何故、オスカル泣いているんだ、俺はもうダメなのか。死んでたまるか、これからじゃないかと言うアンドレ

アラスの町に行った時に見た、日の出をもう一度二人でみようと言うオスカル。

苦しそうでもなく、普通に会話をしているアンドレが、急に目を開けたまま、事切れてしまいます。

そして、オスカルの慟哭の姿が描かれます。「アンドレ、私を置いていくのか」

原作では、私を撃てと言って走り出すオスカル、でも、アンドレの「武官はどんなときでも、感情で行動するものじゃない」という言葉を思い出します。

思い出しますが、でも、

「けれど、けれど、人間だ、人間だ、人間だ、いっそこの胸をえぐりとってくれ、わたしを石にしてくれ、さもなくば狂わせてくれ」

と言って、道に突っ伏して泣くオスカルの姿が描かれます。この描写だけで、オスカルの深い深い悲しみが伝わりました。

そして、その後のことは一切描かれずに、7月14日の朝を迎えます。 

アニメでは、原作では描かれなかった、13日の夜が描かれています。これらは、アニメだけのまったくのオリジナルのシーンです。

アンドレが安置された、広場近くの教会の前に座るオスカルのところにアランがやってきます。

アランは「安っぽい慰めは言いたくないが、アンドレは幸せ者だ」と言います。オスカルと気持ちが通じ合い、二人は結ばれたからだと言います。

オスカルは、アランに「隊の指揮を任せたい」と言いますが、アランに断られます。

ここも、やっぱり違和感を感じました。原作のオスカルは、生涯を武官として、軍神マルスの子として生きるという決意をし、そのことを父ジャルジェ将軍に語りました。自分のなすべきことを途中で放棄するようなことは言わなかっただろうと思います。

池田理代子先生なら、この13日の晩のオスカルの心の葛藤、苦しみをどんなふうに描いたのだろうと、まったく描かれていないシーンなので、想像するしかないのですが。 

私も以前この原作で描かれなかったシーンを記事にしています。

 

lapanlapin.hatenablog.com

そして、アニメの話に戻ります。オスカルは、雨の中を馬を走らせ、兵士たちと戦い、馬を撃ち殺され、時に咳き込み、喀血します。そして、深い後悔へ導かれていきます。

「愛していました。でも、気づくのが遅すぎました。愛は裏切るより、愛に気がつかないほうが罪深い」と言っていました。

確かに、アニメでは、出動前夜で、やっと結ばれたので、遅すぎたとは思います。そんな風にオスカルが、後悔するような描き方がされていると思います。

そして、朝が来て、アランがオスカルを迎えに来ます。そのアランの胸に縋り涙を流すオスカルの姿に、違和感を感じました。

原作では、7月14日の朝、「アンドレ行くぞ、用意はいいか」とごく自然に声をかけてしまうオスカルの姿、アンドレが亡くなったことは頭では理解しているはずです。

でも、毎日毎日そのようにアンドレにオスカルは、声をかけていたのです。そして、そのあと、深い悲しみに再び襲われるオスカルの姿が描かれています。

でも、孤高の人オスカルは、馬上で、上を向いて、何とか涙を堪えようとしますが、涙をとめることが出来ずに、「しばらくすまない、みんな」と言って、そのまま、馬上で泣き崩れます。

最愛のアンドレを失っても、なお、前を向いて進もうとする、軍人として生きようとする、これが原作で描かれているオスカルです。

アニメの再放送も、次の火曜日には最終会を迎えます。毎週楽しみにして観てきました。原作との違いは、毎回記事にしている通りですが、でも、決して批判しているわけではないと、自分では思っています。

アニメ独自の解釈があり、原作との違いがあることは否定出来ませんが、それでも史実に基づき、きちんとフランス革命、そして「ベルサイユのばら」の世界を描こうとする姿勢は評価出来ると思っています。