はるのゆめ

ベルサイユのばらが大好きです

オスカルの死の描かれ方

50年前に連載されていた「ベルサイユのばら」の、オスカルとアンドレが亡くなる場面は、その当時連載で読んでいる読者に、かなり配慮して、死を描いたのではないかと思います。

それは、エピソード編に描かれていた、印象の全く違うオスカルの死に方を見た時にそう感じました。

本編の亡くなる場面も、戦闘で亡くなる二人の死は壮絶です。でも、アンドレは愛するオスカルを守り、亡くなっていくので、自分の使命を全うできた死であり、本人は本望だったと思います。

また、オスカルの亡くなるシーンでは、オスカルを慕うロザリーとアランがオスカルの最期を看取ります。

ロザリーの言葉、悲しみがそのまま読者の気持ちに寄り添い、代弁しているかのようです。そして、オスカルはロザリーに自分の想いを語り、バスティーユに上がる白旗を見て、フランスばんざいと言って亡くなります。

アンドレの死と同様、オスカルも悔いの残らない生を生き、そして満足して、死んでいく姿が描かれています。

そして、オスカルの死は、再びアンドレと再会できるということを想像させ、それも、死のショックを和らげることが、出来る要素でもあります。

でも、そうであっても、当時読んでいた年若い読者層の間には、相当なショックがあったと思うのです。

私は配慮した死を描いていると書きましたが、一つの作品として考えた時にも、この死の描かれ方は年齢、性別を超えた多くの人にも納得でき、受け入れやすいものであり、感動を与えるものであると思います。

それでは、連載40年後にエピソード編で描かれたオスカルの死はどのようなものだったでしょうか。

そこには、ただ、銃弾に撃たれ、ほとんど即死状態のように、うつぶせに倒れている、オスカルの死が描かれています。

ロザリーもアランもいないし、自分の人生を振り返り、これでよかったという想いも描かれていません。フランスばんざいの言葉が添えられていますが、逆にこの亡くなり方だと、この言葉の意味はなんだろうと思ってしまうほどです。

まさに、オスカルが本編で、われらは祖国の名もなき英雄になろうと語っていましたが、その言葉通りの名もなき一人の兵士の死の姿です。

この死の描き方は、「ベルサイユのばら」の後に描かれた「オルフェウスの窓」のアレクセイやユリウス、アルラウネなどの死の描き方に通じるものがあります。

死は突然やってきて、そこには、美しさといえるものは存在しないというのが現実ではないでしょうか。

死は美化されるものではないし、美化することがあってはいけないという、作者の想いかもしれません。

根底には、死は決して美しいものではない、だから、自分の与えられた生を悔いなく生きて欲しいというメッセージがあり、それは、50年前の原作でオスカルが語っていたことなのです。

ただ、表現の仕方が変わっただけで、根底にある作者の想いは、変わっていないことが分かります。

人が亡くなることは、誰しもが避けて通ることはできません。そして、特に時代の変革期には、歴史の名のもとに、多くの人の血が流されると、アランが予感していたことは、まさに真実でそれは歴史が証明しています。

フランス革命も、こののち、本当に多くの人の血が流されていきます。